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篆刻芸術


篆刻芸術


篆 刻 芸 術

平 田 蘭 石

文字と印の変遷


紀元前3500年頃、人類最古の文明発祥地であるメソポタミアで、シュメル人によって絵文字が発明された。

これらは神殿を中心とした生活の記録であり、粘土に直接刻られたものである。絵文字は初期から時代が下るにしたがい字数も増加し、表意文字から表音文字へと進化して行く。

又、印も同時代の原始農耕社会で、すでに製陶・鋳銅などの技術が開発されており、石・粘土・貝殻・骨・金属を素材とし、絵や文字を刻んでいた。

 この時代は信仰心が高く、当時の人々は様々な動物の形をした護符(お守り)を身につけていて、その装飾品がやがて動物を形どったスタンプ(印章)の印に発展していったと考えられている。

 古代中国大陸も絵文字(表意文字)から始まり、政治、経済、文化の発展と共に文字(篆)も抽象化され、殷時代には象形文字が生まれる。篆・隸・草・行・楷書(テン・レイ・ソウ・ギョウ・カイ)(書体の呼称)と進化する。他国と異なり、中国、日本、朝鮮では現在でも表意文字(漢字)が使われている。


文字変遷の一例


印(印章)は自分の権利、義務、所有など、政治的、経済的、文化的な信義を表わすものとして用いられ、今日に至っている。これらの印は、公的性格をもつ官印、私的性格をもつ私印の二つに分けられる。

今日では中国、日本など東アジアの一部でその印の形式が実生活の中で使用されている。さて、我国に伝わった印(漢倭奴国王・カンノワノナノコクオウ=金印九州福岡で発見)と文字(漢字)は、ほぼ同時代の後漢(紀元200年)頃と考えられている。今日まで発見されている中国最古の印は殷時代の墓から出土した銅印である。

 時代が下がり官僚制度が確立し、政治、経済、文化の発展が貨幣の流通を盛んにし、そこから生じる所有権の表示、又取り引きの証し等々が多様化してくる。

更に時代が下り漢の時代の印制は身分の高い者、低い者に区別され、皇帝は白玉又は、金印を使用し他の銀印、銅印などで官職や階級を判然と区別し、公式行事の時はそれを腰に付け官職、階級を誇示した。

 一方書道芸術も同じく殷時代遡り粘土の上に棒切れで刻まれた文字、あるいは獣骨等に刻された占い文字(象形文字)に始まり秦代には筆らしきものが誕生し、木簡、竹簡、絹布等に文章が記録されたものが近年発見された。

後漢には紙が発見され、晋時代に入ると当時の高官僚であった聖書(書道の神様)王義之が書を芸術として高める事となった。更に時代が下り、南宋(1260年)頃から元時代には官僚内で自作の詩を書し古詩を書写し更に画を加え、詩、書、画の風雅を楽しむ賢者が次第に多くなり、中でも職を退きこれらを業とする芸術家がこの頃から誕生したといえる。


篆刻芸術の誕生


明時代(13681616年)これまで職人の手により造られてきた銅印等が、素人でも容易に刻す事ができる蝋石(軟石)が発見され為、詩、書、画家が深い関心をもち挙って自作の印を刻して詩、書、画に使用した。

この頃、篆刻芸術の祖と言われる文彭(ぶんほう)、何雪漁(14901580)等が秦と漢の時代の出土品と思われる印に魅了され、これを模範とし乍らも新たに雅味、刀法に工夫をこらし美観を整え刻石の面白さを世に問い、東洋独自でしかも世界最少のミニチュア芸術として篆刻が生まれる事となる。


日本の印制から篆刻芸術


日本の文化は朝鮮、中国の大きな影響を受け、印も中国の隋、唐時代の制度を取り入れ初期の官印の時代、中期の花押時代、近世の私印時代、現代の公私印時代へと変化してきた。

徳川時代に入ると、士・農・工・商の身分がはっきりし、社会経済の発展とともに、庶民階級へ印が普及し、江戸、京都等では印判師(はんや)などの職業が生まれた。

又、中国明王朝に代わり清朝に政権が移ると篆刻への関心も高まり、日本への明人亡命者が多く出るようになり、その中でも獨立、心越禪師等の僧侶が篆刻芸術を日本の儒者・医術者等に伝え、その後次第に文人の間に広まり、元禄時代には印に関する論文や印譜が刊行されるようになり篆刻の交流の源となった。

尚、岐阜の地にも頼山陽等の儒者学者・文人等が来岐し、芥見の篠田芥津、郡上八幡の二村梅山、関の塚原三谷(本町ねりや)等々により篆刻が広く伝えられた。


現在の篆刻


篆刻芸術は世界最少のミニ芸術(方寸3センチ四方・世界に宇宙が宿る)として生まれ、印譜等机上での鑑賞であったが、近年の豊さと共に地方展、中央展など各種展覧会の開催が多くなり、作品も次第に拡大し机上鑑賞から絵画や書道と同じく平面芸術として鑑賞の対象と変化してきた。

 篆刻作りは押す目的のハンコ的なものから始まって、窮極は人生の喜怒哀楽を刻るという心の芸術にまで昇華してきた。